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金融
2019.08.23
『MONEY TALKS 財閥織田家の経済戦略』

歴史学者 三石晃生の不定期連載“知られざる、偉人とお金のはなし” 第一回 織田信長

織田信長というと天下取りを目指した大大名というイメージだが、実際には織田家は大した家柄ではない。もともと信長の家は大名家でさえなく、織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家という織田家の分家筋である。尾張国のトップである守護・土岐氏に仕える守護代・・・よりさらに下の三奉行家の1つであり、いわば上級管理職程度の出自にすぎなかった。

信長は一代で勢力を築きあげたわけではない。その全ては祖父から始まった。信長の祖父・織田信定の代に津島(現愛知県西部)を獲得する。今の津島は陸地になっていて面影もないが、かつては伊勢湾交易の玄関口として水運で繁栄する大流通都市であった。なおかつ津島神社は主に東国を中心に広がる牛頭天王(ごずてんのう)信仰の中心地であった。そのため多くの信者が参拝に訪れ、またそれに伴う宗教利権で富の潤う信仰都市でもあった。津島を獲得した織田信定はここに本拠となる居城を移し、津島商人たちを保護し、権益を守りながら徐々に織田家の被官(部下)化して貿易都市を掌握していったのであった。

また信長の父である信秀の代には、新たに熱田(愛知県名古屋市)の地も獲得する。熱田もまた、陸路では鎌倉と京都を結ぶ交通の要路であり、港町としては伊勢湾流通で繁栄を極めていた。ここも津島同様、熱田神宮を擁する宗教都市でもある。人の流れ、物流の流れ、そして宗教権益の掌握。これら二代にわたって築かれた2つの大貿易・宗教都市の経営によって得られる巨万の富が、織田家の力の源泉となっていくのであった。

織田家の金の使い道 ~金で手に入るものはなにか?~

信長の父・織田信秀は、金の効用をよく熟知していた。普通の人は金の使い方として消費か、あるいは投資などの利殖の2つしか思いつかない。しかし信長の父・信秀は津島と熱田という2つの大商業都市経営からもたらされる莫大な財力を第三の選択肢「寄付」に投じていくのである。彼が行なった大きな寄進を見てみると、

天文十年(1541)  伊勢外宮に銭700貫文と材木を献上
天文十二年(1543) 「内裏築地修理料」として4000貫文を朝廷に献上
(※『多聞院日記』による)
天文十六年(1547)  5年前の天文法華の乱で消失した京都・建仁寺の塔頭寺院を再建

と、大型寄付を2年単位の早さで行なっている。

まず一番目の伊勢神宮の寄付は、平成25年に行われて記憶に新しい、20年に一度新しく社殿を造営する「式年遷宮」である。15世紀後半以降になると神宮の経済状態は大きく傾き、さらにそれを援助する朝廷や室町幕府も衰退して遷宮費用が捻出できなくなった。その結果、外宮は永享6年(1434)年以降、内宮は寛正3年(1462)以降、式年遷宮の伝統が途絶してしまうのである。

途絶から約100年後、内宮の遷宮(略式ではあるが)のパトロンの目処がついた。しかし朝廷と幕府は慣例に従って外宮の遷宮を先にせねば内宮の遷宮はできないという判断を下す。そうなるとまず外宮が遷宮されなくてはならない。そこで外宮の禰宜(神職)が費用提供してくれそうな「羽振りのいい大名」を探し回って行き着いた先が、この織田信秀であった(信秀は大名ではないのだが)。信長の父、信秀はこの遷宮の費用と材木の負担を快諾する。
この伊勢外宮の遷宮造替費を寄進したことで、朝廷と室町将軍の間で俄かに「織田弾正忠家」という今まで聞いたことのない無名の分家筋の名が知られるきっかけとなった。織田とは何者だ。家柄こそ高くないが、尾張の織田の分家筋には頼れる男がいるらしい、と。

その翌年、今度は朝廷から、破損した内裏(皇居)の修繕を持ちかけられる。そんなものぐらい自分で直せばいいと思うが、後に述べるように天皇は極貧生活を送っていたし、室町幕府にもそんな財源などどこにもなかった。しかしそんな落ち目の朝廷に信秀は救いの手を差し伸べる。この朝廷からの申し出にも快諾し、修繕費として4000貫文をポンと献上してみせたのである。

ちなみにこの4000貫文の金額がどれほどのものかというと、後世にはなるが西国五カ国を領した毛利元就と比較してみる。毛利元就が正親町天皇の即位礼の費用として朝廷に贈った金額が2000貫文。1000貫文は現代の金額に換算すると1億円から1億5000万円程度に相当する。すると信秀が内裏修復に投じた金額は4億から6億にも上る巨額であった。毛利元就は西国五カ国の大大名。織田信秀は尾張国で最も有力な人物ではあったが尾張の一部地域の領主にすぎない。身分的にも分家筋に仕える奉行に過ぎず、毛利家とは領土も格も天と地ほどの差である。それにも関わらず4000貫文の寄進を行うことができる織田家の財力の大きさがどれほどのものかわかるだろう。

当時、多くの大名たちは、もはや落ち目の朝廷や幕府を助ける金を無駄金と思って惜しんだが信長の父・信秀は巨額の富をパブリックなものへ次々とドネーションすることを決断していく。このことが織田家にとって大きな意味をもつことになる。信秀死後、朝廷は何度か信長に肩入れをするのだが、これこそが父・信秀が外宮・朝廷などのパブリックに莫大な資産を投じたことによって形成された「織田ブランド」の力なのであった。

天皇家の窮乏

令和に元号が改まり、10月に天皇即位礼が行われるが、かつてはこの即位礼を行いたくても挙行できなかった天皇たちがいたのである。室町時代末期の応仁の乱以後、天皇や貴族の領地が武士たちに奪われて財源が確保できなくなり、天皇や貴族たちは非常に貧しい生活を余儀なくされていた。奪われた土地を取り戻したいと思っても実行する法的強制力も実行力もないのだから、失われていく土地や財源をただ指をくわえて見ているしかなかった。

当時の天皇家の貧困さは現代の我々の想像をはるかに超えている。後土御門天皇(在位:1464~1500)は59歳で崩御するが、葬儀費用がないために遺体が43日も御所の仏間に置かれたままになり、まだ晩夏の頃であったから腐乱してしまうという有様だった。次の後柏原天皇(在位:1500~1526)は後土御門天皇のあと皇位継承したものの、即位式の費用が用意できず、26年間の在位期間のうち、21年目の58歳にしてようやく即位式を行うことができた。

その後柏原天皇の崩御をうけて即位した後奈良天皇(在位:1526~1557)も多分に漏れず、財政難で在位10年目でなんとか即位式が執り行われる。先の信秀に内裏の修復を依頼したのが後奈良天皇である。天皇であったが貧乏これ極まり、自ら色紙に書を書いてはそれを人に売ったり、朝廷の位を官人以外に販売するほどの窮状ぶりであった。こうした朝廷の状態であったから、巨額の寄付を行う織田家の存在はまさに救世主であった。

信長の心変わりと破滅

織田信長の思考の真骨頂は、優れた資本家や経営者にもみられる「現実的合理主義者かつ夢見がちな理想家」という相反する両義性のバランスにこそあった。しかし織田勢力の成長が頭打ちになり始めるのは天正3年(1575)からである。この頃には長篠の戦いを終え、朝廷から官位昇進のすすめをうけていた。信長自身は受け取らず、代わりに家臣の官位を上げさせたが、この辺りから信長は「天下人」的な自意識に変化していったように思われる。この年を境に信長は文書で「上様」と家臣から呼ばれる(呼ばせる)ようになっているのである。官位こそ受け取りはしなかったが、彼の目は明らかに権威に向き始めていた。本能寺の変は天正10年(1582)。信長の破滅はあと7年へと迫っていた。

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かつて急成長を遂げていた天正3年以前の信長には、ある特徴があった。祖父が創業して以来の織田財閥の総帥を継承した御曹司・信長の明確な方針は、織田家資本の拡大と新たな市場・権益の獲得である。信長は室町将軍から副将軍や管領職など武家社会における実質最高の位を与えると言われたが、これを断って「堺・大津・草津」という国内最大級の物流拠点を欲しがった。信長は無意味な名誉や領土拡大欲ではなく、堺・大津・草津といった国内最大のトレードセンターにターゲットを的確に絞っていたのだ。その中でも堺は群を抜いており、国際的貿易都市かつ国内最大の工業生産地でもあった。宣教師フランシスコ・ザビエルが堺を訪れたとき「(堺は)日本国内の殆どの富が集積している地」であると評価している。
父・信秀は熱田、祖父・信定は津島であった。織田家のヴィジョンは明確かつ一貫している。「富の源泉を掌握せよ」。この一言に尽きるだろう。織田家とは土地ではなく、いち早く銭(マネー)を収益の中心に据えた一族であった。マネーの効用をよく熟知し、「経済力」を効率的に駆使し、レバレッジをきかせながら「経済戦略」というマネーをメインにした戦略を展開したこと。それこそが織田家が急成長を遂げた強さの秘訣だったである。

illustrations by Mao Nishida

主要参考文献ならびに論文:
『言継卿記』山科言継著、大田藤四郎編 大洋社 1941
『御湯殿の上の日記』(『続群書類従』補遺3)
『多聞院日記』多聞院英俊著、辻善之助編 角川書店 1967
小島広次「勝幡系織田氏と津島衆―織田政権の性格をさぐるために」『名古屋大学日本史論集』下 1975
小島広次「信長以前の織田氏」『歴史手帖』 3-12 1975
鳥居和之「織田信秀の尾張支配」『名古屋市博物館研究紀要』19 1996
藤本元啓『中世熱田社の構造と展開』続群書類従完成会 2003

著者プロフィール
三石晃生
東京生まれ。歴史学者/株式会社goscobe代表取締役
大学2年次より渋沢栄一子爵・井上通泰宮中顧問官らが設立した(公社)温故學會・塙保己一史料館の研究員を務める。現在は同所の監事を兼任。2017年に実証史学の歴史分析手法を用いた世界初の歴史コンサルタント「株式会社goscobe(グスコーブ)」を設立。佐宗邦威氏の(株)BIOTOPE・外部パートナー、金沢の老舗酒造・福光屋顧問、(株)OPENSAUCEで"wiseman"を務める傍ら、映画評論なども多岐にわたって活動。

      
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2019/8/12
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